画家・中山眞治のプロフィール

 初めまして、私は画家の中山眞治と申します。最近では、新型コロナウイルスの影響で、すっかり社会生活全体が大きく変化してしまいましたが、お元気でお過ごしでしょうか?

 ところで、このところ世界的に不穏な出来事がいろいろと頻発しているので、平穏な暮らしを送ることが難しい状況です。新型コロナウイルス・ロシアのウクライナ侵攻・資源価格や材料費の高騰・輸送コストの上昇・食糧危機・大幅な為替変動など、外部環境には目が離せない状況です。

 とりわけ日本では、急ピッチな円安の影響が今、「値上げラッシュ」の形で家計を直撃していますので、支出が増えたことを実感している人が多いことでしょう。また、コロナは今回の第7波では、恐るべきスピードで人々を襲いつつあり、どこを向いても落ち着けない状況ではないでしょうか。


 特にあなたは、ご自分の将来に向って、日々の暮らしの充実・婚活・資産形成・転職や起業・資格取得・健康・親御さんの介護、なども考える時期に差し掛かっているとすれば、なんとも不安になるような状況ではないでしょうか。

 私中山は、29歳から一人暮らしを始めて、長いこと毎日同じパターンの生活に飽き飽きしていたので、不摂生がたたり健康診断では再検査というような状態で、健康的な生活とは程遠い生活を送っていました。

 そして、43歳でようやく結婚できましたが、それまでは今から考えると信じられないような無駄遣いの毎日で、最高に使ったときには一晩の飲食費が10万円ということもありました。

 更に、職歴においては9回も転職を繰り返しましたが、逆に、これらの経験やスキルを活かそうと58歳の時に独立起業しましたが、残念なことに、足掛け4年で結果を出せないまま会社を消滅させてしまった、現在64歳の男です。

 しかし、私は現在の境遇に至った経緯を後悔していません。それは、私は今まで自分の思ったように生きてこられたからです。そして、現在も次の事業を立ちあげている最中です。

 ところで私は、36歳の時に絵画教室へ行きました。それまでに絵画など真剣にお取り組んだことない生活を送っていましたが、婚活の手始めに行動しようと思い立ったことがきっかけです。

 嫁さん探しという「不純な動機」から始まった絵画との出会いでしたが、そこで鉛筆画にはまってしまい、次々にモチーフを変えて取り組んでいくうちに、当然作品数が増えていきますので、目標を「個展の開催」に据えて取り組みました。^^

 個展開催後には、市展・県展・全国公募展を目指す展開へと発展して、ある絵画団体へ所属して19年間ほど所属しました。この絵画との出会いは、私の生活スタイルが絵画の制作が中心になり、結果的に健康的な、浪費を抑えた生活ができるようになり、充実した人生を歩んでこられました。

 ところであなたは、現在休日や平日の自由時間が充実できていますか?それは、没頭できる趣味を見つけることで大きく改善できます。費用が大きくかからない・独りでもできる・いつでもできる・天候に左右されない・発表する機会がある・等であれば、友活・恋活にも使えます。

 私は、あなたが絵画との出会いによって日々を充実させることができると同時に、浪費を抑えて健康に生活を送れて、絵画を通した新たな老若男女を問わず友人ができ、老後までを見据えた充実した人生を歩んでほしいのです。

 私は、高卒で絵画にまともに取り組んだことがありませんでしたが、今は無所属の画家です。画家になるためには、美大を出ていなくてもなれますし、年齢が若かろうが年配であろうが関係なく進んでいけます。

 尚、その方法については、以前絵画団体に所属していた時に、画家の定義について周囲の画家仲間と話し合ったことがあります。多くの意見として、全国公募展で入賞歴(大賞や新人賞及び奨励賞など)1回以上、または、全国公募展で入選歴通算で5回以上、あるいは、個展開催1回以上という意見でした。

 一番わかりやすいのは、全国公募展などでの入賞歴や入選歴を積み上げることが、実績として示しやすいので、次のような方法で進むことができます。私もこの方法で進みましたが、県展だけは出品していません。それは、市展の後に全国公募展に入選したので、県展での展開が必要なくなったからです。

  • とにかく10作品仕上げる(F6~F10号サイズ)
  • 構図を研究し構図を取り入れたF10号サイズの作品30作品を仕上げる(1回の個展分)
  • 個展の開催(F6~F10号サイズでも小品展として個展が開催できます)
  • 美術年鑑・美術名鑑などへ掲載してもらう(2~3年で値段が付きます)
  • 市の展覧会へ出品(対象展覧会の規定によりますがF30~F50号サイズ)
  • 県の展覧会へ出品(対象展覧会の規定によりますがF50~F100号サイズ)
  • 全国公募展へ出品(対象展覧会の規定によりますがF100~F130号サイズ)
  • 個展の開催 前回の個展で陳列できなかったF10作品と、市展・県展・全国公募展に出品した作品も陳列できる。

 個展の開催では、できるものであれば、20・30・50・80・100・130号などさまざまな大きさの作品があるとバリエーションが出ますが、80・100・130号は全国公募展などで入選した作品を個展に展示するくらいの考えでよいのです。

 因みに、私は、全国公募展用の作品はF130号(194cm×162cm)を鉛筆で制作していたときには、1枚描き上げるのに半年かかっていました。これから個展を開催する際には、「実際に売れる大きさの作品(0~10号)」を多く展示する予定です。

 また、あなたが、絵画の取り組みをする場合につきましては、次のようなメリットを享受できます。

  • お金があまりかからないので、おのずと浪費が減り節約ができて投資に活用できるようになる
  • 絵画の制作が没頭できる趣味になれば、絵画の制作を生活の基盤に据えることができて規則正しい・健康的な生活を実現する基礎が作れる
  • 一人でも楽しめるので生活が充実する
  • いつでも(何時でも)できるので気軽に取り組める
  • 天候に左右されないのでいつでもできるし暑さ寒さとは無縁の充実を得られる
  • 浪費の節約になり、節約できた部分は老後を意識した長期の投資に活用できる
  • 全く別世界の友人が新たにできる(老若男女問わず)
  • 異性との出逢いとも連動できる場合がある(絵画教室や展覧会出品者にはたくさんの異性がいて、共通する絵画の話題で自然な会話ができる)
  • 趣味からプロへの道も開ける可能性がある
  • 展覧会などで自分の作品の発表ができる
  • プロになった場合作品を販売できる可能性がある
  • プロになった場合作品の描き方をネットで販売できる可能性もある
  • 国内や海外旅行の目的に展覧会・美術館訪問を据えることができる
  • 年老いても続けられる

     
     どうも。画家の中山眞治です。

     今回から、このブログの運営者である私の人生を振り返りながら、私自身も試行錯誤中ではありますが、現在から未来へ通ずる健康・精神的な充実・規則正しい生活・浪費を抑えた蓄財の根本として、素人が画家になるための絵画講座を展開させていただくことにしました。

     その理由としては、私自身がずいぶんと遠回りをして、ようやく健康的かつ充実した生活ができるようになってきましたので、あなたにも一日も早く充実した生活を送ってほしいからです。

     私のように、時間の浪費が多い人生を送っている人がいたとしたら、早く気づいて未来に備えましょう。今からでも、絵画に取り組むことで、充実した生活と老後までを見据えた基礎作りに取り組むことができます。

     尚、この自己紹介では、自分自身のことを書くことに自信はありませんが、よろしければお読みください。しかし、やたらと長い割には、面白くないかもしれません。心の準備はよろしいですか?知りませんよ。つまらなくても!

    目 次
    1 画家の中山ってどんな人?
    (1) スキンヘッドになったら堂々と歩きましょう!
    (2) ポイントは背筋を伸ばしてガニマタ歩きを修整することです!
    2 中山のここまでの人生
    (1) 家族関係
    a 遊び相手を変える
    b 大物漁の予感
    c 逃げた魚は大きい
    (2) 梅酒の誘惑
    a 梅酒に魅せられた少年
    (3) ひどいガキとはオレのこった!
    (4) 中学時代
    a 途中まで勉強に明け暮れた中学時代前半
    b 非行に走り始めた中学時代後半
    (5) 非行に突っ走っていた高校時代
    a 不良は飲みに行くぜ!16歳で居酒屋デビュー!
    b 修学旅行ではみんなよりも早いご帰還!?
    (6) 毎日夜遊びで忙しい日々・そして就職
    (7) 第1番目の就職
    a 新人賞受賞
    b 給料が少なくてろくに飲みにも行けない不満から、ついに退職を決意!
    (8) 第2番目の就職
    a 田舎者ダンディー
    b 器が小さくセコイ田舎者ダンディー
    c 毎夜のように飲みに誘われ、断ると嫌がらせをする田舎者ダンディー
    d 人事権を低い役職者に任せちゃダメでしょ!
    e ついに会社に見切りをつける
    (9) 第3番目の就職
    a 今度は職務内容で騙される
    b 部屋の灯りを消すな~!やめろー~~!!
    c 大きな嘘ばっかつきやがって、やってられっか!
    (10) 第4番目の就職
    a 新たな業界へ進出
    b バカ売れ商品と出逢う
    (11) 第5番目の就職
    a 世間知らずのガキをすぐに社長にしちゃだめでしょ!
    b 約束が違うでしょ!何度も確認して約束しましたよね!
    c 営業部長返上!どうだこれで文句ねーだろーが!
    d またですか?
    e そこまでなめられちゃ、ここまでだな!
    (12) 第6番目の就職
    a 損害保険会社のいやらしい戦略を知らずに勤務!
    b 保険会社のいやらしい裏側の顔とは?
    c なに~~!職業別電話帳が資料だと~~~!
    d ノウハウのない会社ほど惨めなものはありませんね!
    e 保険会社が本来持っていなければならないノウハウとは?
    f 保険会社に転職する際にはよくよく検討しなければなりません!
    g 保険会社の戦略にはまり一番やりたくないことをさせられる羽目に!
    h 最高に素晴らしい「人でなし企業」とは?
    (13) 第7番目の就職
    a これがブラック企業の代表格だぜ!
    b 悪魔のようなクズ男に呆然の毎日
    c 入社したはずの社員がいまだに帰ってこないミステリー!?
    (14) 第8番目の就職
    a やっと闇の中の影のような「暗黒企業」を脱出するも、ぼけ老人社長に
    苦しめられる!
    b 何を言っているのか良く解らないボケモン!
    c 会社のトップにビジョンがなくては社員は展望できません
    (15) 第9番目の就職
    a 奇跡的な偶然により入社が決まる!
    b 名刺は色々と行動して各方面へ渡しておくべきですな~!
    c 外資メーカーの日本国内営業総責任者に就任。て聞くと恰好いいでし
    ょ!
    d 60歳定年制の壁が立ちはだかる!
    (16) 独立起業、会社立ち上げ!
    a 困難を極める商材探しと販路開拓!
    b 自社サイト・通販サイト作成や商材探しなどで苦戦
    c 新規開拓では近隣の新規開拓から始めることが最重要!
    d 販売店での展開は商社を介在させることの必要性を痛感!
    e 上場販売店(数百店舗級)での企画決定は「砂上の楼閣」だった!
    f 金策にあえぐ!
    g 最終手段実行の時迫る!
    h 意外にも簡単には死ねないんですね?
    i 自分の死に顔を夢に見て熟睡できるわけないでしょ!
    j 死ぬ準備って結構気を使うんですよ!
    k 死出の旅路のシミュレーション
    l 決行日が迫っていることを女房に伝える
    m 直前で決行を思いとどまる
    3 中山の履歴・スキル・画歴

    1 画家の中山ってどんな人?
    (1) スキンヘッドになったら堂々と歩きましょう!
     改めまして、私は1957年生まれで現在64歳の男です。私の外見の特徴は、頭のてっぺんが薄くなったので、5年前からスキンヘッドです。思い切ってスキンヘッドになった方が若々しく見えるようですよ!

     ただ、自己紹介の写真では、現在のスキンヘッドになってからの写真は、人相の悪い物ばかりしかなかったので、スキンヘッドになる直前の写真にさせていただきました。

     尚、スキンヘッドになると、「顔や頭などの頭部全体に汗をかいても、「すぐに洗ってさっぱりできる」のが最高です。今さら前の状態には戻れま
    せんね。実に爽やかです!

    (2) ポイントは背筋を伸ばしてガニマタ歩きを修整することです
     ただ、この場合重要なポイントがあります。背筋を伸ばして堂々と、颯爽 としていなければいけません。

     想像してみてください。スキンヘッドの60過ぎの男が上体をかがめて、せかせかとガニマタで歩いていたら、ただの「精彩の無いむさ苦しいジイサン」でしかありませんよね。

    2 中山のここまでの人生
    (1) 家族関係
     私は1957年に埼玉に生まれました。父は公務員で母は専業主婦でした。私は3人兄弟の3男坊で、2つ上の兄と4つ上の兄がいます。

     父母は既に亡くなりました。尚、兄弟の仲は、それぞれに良いとは言えません。現在年に一度、お盆に実家へ行くかどうかという感じです(私は長男と折り合いが悪いのです)。

     私は、小学生までは、2つ上の兄とよくメンコやビーダマ・ベーゴマ遊びまたは釣りなどをして遊んでいましたが、この兄はとても気難しい人でした。

     釣りに行くときなどには、いつも水の入った重いバケツを私に持たせて、さっさと一人で先に行ってしまう人です。あるときバケツを持つのを拒んだところ、ひどく怒りました。

    a 遊び相手を変える
     そんなことから、小学校2年生くらいからは、私は同世代の友人達と遊ぶようになりました。私は、いじめたこともいじめられたこともある、どこにでもいるような普通の子供でした。

     釣り以外にも、「ヨツデ」というチリトリのような格好をした竹の骨組みの、網が入口以外の両側面と後面と底面に張られている漁具があり、それでよくフナやドジョウをとったものです。

     今では、どこへ行っても「どぶ川」と言うのは見かけることがなくなってきましたが、何しろ今から50年以上も前ですので、その頃はいたるところにどぶ川があり、この漁具ではずいぶんと遊ばせてもらいました。

    b 大物漁の予感
     ある時、通りすがりの大人同士の会話の中に、台風のさなかには「水かさの増したどぶ川は大きなコイやフナ・ウナギなどが移動している」と聞きました。

     そして、台風の襲来したある日、ふと以前に聞いた「大物の移動」が気になって、風雨の中いつもの場所にヨツデをしかけました。

     やがて、その場を少し離れて戻ったところ、風の影響以上にヨツデが左右に揺れているのです。何かごみでも引っかかったのかと思い、ヨツデを引き上げてみると、網底に大きなコイが重々しく飛び跳ねていました。

    c 逃げた魚は大きい
     40cmくらいはあったでしょうか。これを捕まえて家に帰ったら、さぞかし家族をびっくりさせられるだろうと思うと妙に力が入ってしまい、ぎこちない動きの隙を突かれて、結局そのコイを取り逃がしてしまいました。

    (2) 梅酒の誘惑
     小学校時代の思い出はそれほど多いわけではありませんが、酒飲みの素養が頭角を現し始めたのは、小学校4年生からです。

     ある夏休みの日曜日の暑い昼下がりに、何か冷たいものを飲もうということになりました。そこで、父が「カルピスに少し梅酒を入れるとうまいんだ」と言い出したので、家族全員で試してみました。う、うまい!

     その味を知ってしまった小学校4年生の私は、それからも親のいない時には梅酒を主体としたカルピスを作って、そのうまさに酔いしれていましたが、そのたびに梅酒の量は増えていくのです。

    a 梅酒に魅せられた少年
     そして、いつしか「梅酒だけを飲んだらもっとうまいんじゃないか?」という欲望を頭から追い払い切れず、ある時ついに実行に移してしまうのでした。

     しかし、飲み終わっていい調子になっていた夕方、折り悪く父が帰宅してしまい、畳の部屋で真っ赤な顔で大の字になっているところを発見されて、こっぴどく叱られました。

    (3) ひどいガキとはオレのこった!
     それ以外には、近所の遊び仲間の子が田んぼの淵を歩いているところを、後ろから突き落としてみたり、また、近所に石油タンクのようなものがあったので、その中に遊び仲間を閉じ込めて遊んだりしていました。

     このタンクは、貨物列車が石油関連製品を輸送する際に使っているような形状のものですが、その中に遊び仲間を閉じ込め入口にフタをして鍵を閉め、他の場所へ遊びに行ってしまうのです。

     また、鬼ごっこでは、鬼を残してみんなと一緒に帰ってしまい、さらに翌日に鬼になっていた子が、その後どうしていたのかを聞きに行くという意地の悪さでした。

    (4) 中学時代
    a 途中まで勉強に明け暮れた中学時代前半
     中学時代は、勉強が好きだった2つ上の兄に影響を受けて、一日8時間くらい勉強していた時もありました。しかし、兄のまねをして「だらだらとした勉強」でしたので、成績は大したものではありませんでした。

     それでも中学2年の時に、勉強好きだった兄が「大した高校へ進学できなかった」のを見てがっかりした時から、勉強に身が入らなくなってしまいました。

    b 非行に走り始めた中学時代後半
     「兄貴のようにいくら努力しても、あの程度の高校にしか行けないんだったら勉強しても意味が無い」と勝手に決めつけてしまい、「タバコと夜遊び」の味を知り、どんどん「非行」の道を辿ります。

     そして、高校進学が迫ってきた頃になって慌てて勉強を再開しても、そんなに甘くはない訳ですよ。しかし、私立の高校を「滑り止め」にして、最終的には埼玉県内の高校に何とか潜り込みました。

    小話:中学3年生の時、「顔の老けていた」私は、友達3人と一緒にパチンコに行きましたが、友達は3人とも「補導」されたのに、私だけ「補導してくれない」という事件が発生しました。

    (5) 非行に突っ走っていた高校時代
     何とか潜り込むことに成功した埼玉県内の高校では、なんと女子生徒の方が多い高校だったのです!8クラス中、男女混合のクラスが6・女子のみのクラスが2クラスというくらい女子生徒が多かったのです!

     この喜ばしい状況を存分に満喫することなく、毎日学校帰りには友達の家でタバコを吸いながらマージャンをして、その後家へ帰り、夜遊びに出かける。

     バイクに乗って走り回り、遊び疲れると今度は友達の親の酒を盗み飲むか、安い赤ちょうちんに飲みに行くなどの日々でした(高校1~2年)。

    a 不良は飲みに行くぜ!16歳で居酒屋デビュー!
     何度も言いますが、私は顔が「老けていたので」高校生の頃から24~25歳くらいに見られていたこともあり、飲みに行っても「誰からもとがめられることなく」飲むことができたのです。

     親友2人で連れ立って飲みに行くと、20代中頃の青年が、弟を連れて社会勉強的に飲みに来ているくらいにしか見えなかったようで、誰からもクレームがついたことはありませんでした。

    b 修学旅行ではみんなよりも早いご帰還!?
     修学旅行でも「酒とタバコ」で途中から帰されて「停学」というおまけまでつきましたが、いつの間にか、この高校では勉強をそれほどしないまま、卒業できてしまいました。

    (6) 毎日夜遊びで忙しい日々・そして就職
     私の就職したころの時代背景は、「オイルショック」の直後でした。車の売れ行きは芳しくなく、「排ガス規制」によって車の性能は低下して、燃費も悪かった記憶があります。

     そのころのガソリン価格はなんと「70円台(レギュラー)」だったことを覚えています。

    (7) 第1番目の就職
    a 新人賞受賞
     私は高校を卒業して、埼玉県内の自動車ディーラーに就職しました。「持ち前の老けた顔で顧客の安心を誘い」また、周囲の協力もあり、就職したその年の販売実績を競うコンテストで、「新人賞」を獲得できました。

     しかし、この会社での収入はとても少なく、若かった私には、ファッション・車のローン・ガソリン代・毎晩の飲み代を考えると、まったく足りなかったのです。

     この会社での反省点としては、せっかく新人賞も取ったし、やり方を工夫すればまだまだ給料を増やせるかもしれないと、自分を励ますこともできたようにも思います。

    b 給料が少なくてろくに飲みにも行けない不満から、ついに退職を決意!
     しかし、辛抱して仕事に集中し、歩合給をたくさん増やすという手もあるにはあったのですが、基本給が安すぎました。

     当時は物価も安くはありましたが、私は高卒なので税込みで、8万円くらいでした(手取りでは7万円を少し超える程度です…車を2台売った歩合も入ってですよ!)

     そして、この仕事に集中すると仮定しても、展望が描けなかったのです。こんな給料でいずれ結婚なんてできるのか?と不安がいつも脳裏をよぎりました。これがこの会社を辞めた最大の理由です。

    (8) 第2番目の就職
    a 田舎者ダンディー
     前職をやめて、水道屋のバイトに明け暮れていたある日、前職でよく面倒を見て下さった年配の方から紹介を受けて、「法人を対象にした自動車リースの営業」の職に就きました。

     その会社での私の先輩は、私よりも3歳年上でホストのような服装と髪型の、田舎者のくせに恰好ばかりつける人物がたった一人しかおらず、こちらから頭を下げてくるのを待っている人物でした。

     もう、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで、その田舎者ダンディーの食事の仕方が、いちいち腹が立つのです。ラーメンを1本1本食べているのです。この男の後頭部を掴んで、ラーメンどんぶりに沈めたい衝動にかられたものです。

    b 器が小さくセコイ田舎者ダンディー
     この田舎者ダンディーは器が小さい男で、私がまとまった契約(10台)を取ってきた時など、喜んでくれるかと期待して帰って報告すると、妬んでいたんですね。これが!

     その一方で、直属の上司Y次長が、自分も飲みたいからか「会社の経費で飲みに行こう」と毎晩のように我々を誘ってくるのですが、私は車で帰りますし、また、地元では友達が待っているのです。

    c 毎夜のように飲みに誘われ、断ると嫌がらせをする田舎者ダンディー
     会社の経費で落とす際に、リース部門全員(当時は、Y次長を入れてたったの3人)で「士気を高める」という名目で経費処理していたようで、全員が揃わなければ行かないことにしていたようです。

     その後、会社は伸び盛りの状態を迎え、新しい事務所へ移転したり、社員数も増えて、右肩上がりの業績で進んでいきました。しかし、たびたび飲み会を断る私をこのセコイ田舎者ダンディーは面白くなかったのです。

     入社して5年くらいが経過したある日、何でもないような役職でしたが、その役を私に付ける付けないの話があったものの、田舎者ダンディーが「私の態度が良くないので態度を改めれば役を付ける」とのことでした。

    d 人事権を低い役職者に任せちゃダメでしょ!
     本来このような人事については、その部署の責任者である部長などが人事を決定することになるはずですが、どういうわけか、田舎者ダンディーがその人事権を握っているというのです。

     結局その田舎者ダンディーの指示に従い、1ヶ月様子を見るとのことでしたので、言われるがままに指示に従うことにしました。

     しかし、その通りの行動に態度を改めて1ヶ月後田舎者ダンディーに直接確認してみると、やらせるだけやらせておいて、私よりも後から入社した後輩(私よりも年上)を対象となっている役職へ押すというのです。

    e ついに会社に見切りをつける!
     このように約束を反故にされて、と言うか騙され・裏切られたわけです。 ここでの反省点として、そんな小さな人事には目をつぶって、伸び盛りの仕事に集中することもできたかもしれません。

     しかし、私は約束を守らない人間はどうしても許せないのです。そんな男の下で仕事などできません。この気持ちが強く働き、最終的には6年半在籍していたその会社を去ることにしました。

    (9) 第3番目の就職
    a 今度は職務内容で騙される
     自動車リースの会社に勤務していたときから、私へ盛んに引き抜きを仕掛けてくる得意先があり、私と、もう1人同じ会社のレンタカー部門で働いていた人物と一緒に、スカウトを受けることにしました。

     私としては、田舎者ダンディーの件がありましたので、渡りに船だったのです。引き抜きの際の説明では、この会社は、冠婚葬祭で必要となる全ての商品を製造しているメーカーとのことでした。

     入社する前の話では、結婚式に使う製品の50%・葬儀に使う商品は50%を製造しているとのことでしたが、実際に入社してみると取り扱い商品は、葬儀に使う商品が100%なのです。

    b 部屋の灯りを消すな~!やめろ~~!!
     この会社の営業展開は、全国の農協・互助会・葬儀社の仕入れ担当者を自社ビルの中の展示室に招いて商談をおこなったり、定期訪問などを通じて販売することがメインの仕事になっていました。

     展示会では、葬儀に使う商品なので、当然のように棺や骨壺・祭壇・庭道具などの商品が薄暗い展示会場に所狭しと並んでいるわけです。

     棺には当然何も入っているわけはないのですが、怖いのです。その展示会場での仕事を終えて、会場の電気を消して帰る時が一番怖かった。突然棺のふたが開いて、中から死者が這い出てくるような気がするのです。

    c 大きな嘘ばっかつきやがって、やってられっか!
     しかし、取り扱う商品に嘘があったとしても、この会社からスカウトを受けた際の話は、「東京都内に新たに2ヶ所の営業所を出すので、それぞれの所長としてきてほしい」というのが、今回のスカウトの話しでした。

     しかし、この話はまったくの作り話でした。最終的に、我々2人をスカウトした関東ブロック長には、スカウトをするだけの権限が全く無いことが判明したのです。

     そして、この人物は社内で当然その責任を問われ、全ての役職を解かれて 倉庫要員にまで落とされましたが、それでもこちらの気は収まりません、しかし、もう後の祭りです。わずか半年で去ることにしました。

    (10) 第4番目の就職
    a 新たな業界へ進出
     その後、私はそれまでに自動車関連の仕事が長かったのですが、カーリースの会社では手取り10万円強でした)ので、他のさまざまな業種を考えてみることにしました。

     そこで、家庭用品・家電製品関連商品の販売に興味があったので、これらの商品の取り扱いのある商社では、自動車関連の会社と比較すると、給料も良かったので就職することにしました(給料は税込み18万円くらい、手取りで16万円くらいでした)。

     ここでは、私がその後出合うことになるバスポンプの取引がありました。現在は、洗濯機に風呂の残り湯を吸い揚げるポンプが標準装備されていますが、当時は別売り商品だったのです。

    b バカ売れ商品と出会う
     当時、折からの節約ブームを背景にしてバスポンプは飛ぶように売れ、結果として、その製造メーカーにスカウトされることになりました。

     せっかく私の営業力を買ってくれているメーカーからの引き抜きを大事にしたい気持ちが大きかったのです。

    (11) 第5番目の就職
    a 世間知らずのガキをすぐに社長にしちゃだめでしょ!
     スカウトされたこのメーカーの社長には息子がいましたが、他の会社で働いていたので当初は何も問題は無かったのですが、ある時その息子が大阪本社に入社することになりました。

     ある日、本社へ入社したばかりの息子と社長が喧嘩をしてしまい、息子を本社に置いておけないという事態になりました。そこで、私が東京に引き取り、営業を全く知らないその息子に、一から手ほどきしました。

     公私にわたり3年半面倒を見ましたが、息子を本社へ帰してみると、親(夫が社長・妻 が副社長)は息子に苦労や辛抱することを教えずに、短期間ですぐに社長にしてしまいました。

    b 約束が違うでしょ!何度も確認して約束しましたよね!
     同時に、私にも東京営業所長に兼ねて営業部長の役が付きましたが、なんとなく嫌な予感がしていました。その予感は、のちに的中することになったのです。数年経ったとき、突然本社に来てほしいというのです。

     元々、この会社にスカウトされた際の入社時の約束には、「転勤は無いことを再三確認や約束をしていた」にもかかわらずです。

     サラリーマンなので、紙切れ一枚の辞令で何も言わず転勤しなくてはならないのはよく解っています。私としては納得がいきませんでしたが、よく考えた結果として、月の中で本社勤務半分・営業所勤務半分を提案しました。

    c 営業部長返上!どうだこれで文句ねーだろーが!
     しかし、半々の生活をすると経費が無駄だという理由で却下され、本社での勤務を強く迫られましたので、結局私は営業部長を返上して、営業所長職に専念させてもらうことにしました。

     そもそも、私がなぜ本社勤務を嫌がったかというと、当時独身だった私は、大阪の女性が嫌いというわけではなく、単純に「女房になってもらう人は私と同じ関東の人がいい」と思っていたからです。

     その後、営業所長としての業務に専念し、今までの部下だった課長が営業部長となりはしたものの、それでも私としては本社へ行かないで済んだのですから、それでよかったのです。

    d またですか?
     しかし数年経過したある日、再度本社勤務を打診してきました。また、この2度目の本社勤務の話が出た時には、現在の女房と出会い、近い時期に結婚を予定していたので、単身では赴任できない事情もありました。

     そして、この頃には絵を描きながら、不動産鑑定士を目指して勉強もしていましたし、勉強に専念したいという考えもふつふつと湧き上がって来ていたのも事実です。

     やがて、ようやく43才にして結婚できることになりました。この披露宴は、私の第2回目の個展会場の初日を使って執り行いました。自分の絵に囲まれる結婚披露宴は、何とも言えない充実感に満たされたものです。

    e そこまでなめられちゃ、ここまでだな!
     その後本社への単身赴任を打診してきましたが、いずれは独立して仕事をしたいとも考えていましたので、そう考えると、もっと多くの会社を見る経験が必要でした。

     そこで女房と相談して、ここが区切りを付けるタイミングと判断してこの会社を去り、不動産鑑定士の受験とファイナンシャルプランナーの資格取得や大学での単位取得及び絵画の制作も同時進行することにしました。

    (12) 第6番目の就職
    a 損害保険会社のいやらしい戦略を知らずに勤務!
     その後、不動産鑑定士の受験は残念ながら不調に終わり、私の家にはほとんどお金が無くなってしまいましたので、女房と2人で真っ青です。もうここから必死です。

     この時点で、既に46歳ですから、ハローワークに行っても、ロクな仕事はありません。しかし、その中から某損害保険会社の「研修嘱託社員募集」が目に入りました。

     この会社は給料もまあまあで(手取り26万円くらい)、保険会社の各種資格についても取得できることになっていたので、迷わずに応募しました。

    b 保険会社のいやらしい裏側の顔とは?
     結果から言うと、保険会社は売り上げを稼ぐためにあらゆる手段を講じます。

     その一つは前述したように、「研修嘱託社員」という形を取って、要は、その研修嘱託社員の親・兄弟・親戚・友人・知人などへ営業をさせて、契約を取らせることが目的です。

     表向きにはまっとうな仕事を装い、実態は新たに入社させた人物の人脈を 使った営業をさせて、ことごとく契約させて吸い取り、半年という期限を切って追い出して、最終的には会社に契約だけが残る仕組みなのです。

    c なに~!職業別電話帳が資料だと~~!
     私が配属された支社では、私が「ファイナンシャル・プランナー(AFP)の資格を持っていた」ので、その資格を活用して、法人を対象として営業活動することを伝えたところ、大いに賛成されました。

     その際に、対象となる企業群の資料やリストの有無を確認したところ「ある」とのことだったので、入社した後に資料の提示を求めたところ、目の前に出されたのは何と職業別電話帳1冊だけでした。

    d ノウハウのない会社ほど惨めなものはありませんね!
     最初は冗談だと思い、私は笑いながら、視線を自分の手元の職業別電話帳から相手の顔へと移すと、何と相手の目は驚くほど真剣なのです。飛び上がりそうになりました。

    e 保険会社が本来持っていなければならないノウハウとは?
     本来であれば、法人相手に営業するのであれば、それに見合った対象資料 (リスト)や戦略などがあって、営業方法などの具体的な指導があるべきですよね。

     営業する本人の親・兄弟・親戚・友人・知人などは逆に相手にさせず、新たにお客を開拓できるノウハウで進んでいくことが、営業本人が行き詰ったり傷ついたりしないで済む正当なやり方なはずです。

    f 保険会社に転職する際にはよくよく検討しなければなりません!
     あなたが転職を検討しているとした場合、保険関連会社に転職する際には、よくよく検討と確認をすべきです。私は反対しますけどね。業界の体質がそう簡単に改まるはずはないからです。

     機関投資家などという言葉がある事や、保険金支払い発生時に、彼らは「保険金事故」と呼んでいることからもそんな感じですよね。

    g 保険会社の戦略にはまり一番やりたくないことをさせられる羽目に!
     自分はがっかりしながらも、法人対象の営業もしてみましたが、実績は上がらず、結局は追い詰められていき、会社の思惑通りに動かざるをえなくなりました。給料をもらっている以上は仕方がなかったのです。

     この制度は、半年の間に「親・兄弟・親戚・友人・知人・過去の職場の同僚や取引先などへ泣きついてでも契約をとってきてね」というもので、よほど成績が良い人物以外は契約をとるだけ取らされて切り捨てられるのです。

    h 最高に素晴らしい「人でなし企業」とは?
     この損害保険会社は自社社員を使って、人脈を手繰らない当たり前の営業をしても契約を取ることは大変難しいので、このような「人でなし」のような「研修嘱託社員」採用につながっているのでしょう。

     事務員の女性たちも、決してこの制度で入社した我々「研修嘱託」と親しくする人はいませんでした。また、視線さえ合わせようとするのを拒んでいる風でもありました。

     なぜなら、会社は名目がどうであれ、結果的に人を公然と利用して、半年後には放り出すことが最初から決まっているからです。

    (13) 第7番目の就職
    a これがブラック企業の代表格だぜ!
     尚、保険会社に入社した瞬間から「みんなの嫌われ者」に変身した私は、不動産鑑定は残念な結果となってしまいましたが、鑑定がダメならば販売があるじゃないかと思い立ち、不動産会社に勤務しました。

     この会社は、ブラックなんてもんじゃないくらいひどい職場環境でした。社長をやっていた人物はコンプレックスの塊で、これまでの人生で背負ってきたウサを、社員に「ぶちまける」ような人でした。

     自分の社用車を社員総がかりで掃除させたり、何か気に入らないことなどがあると、全員の前で2~3時間も一人の社員を立たせて怒鳴り続ける。それが夜遅くからでもお構いなし、社員の人格の否定など当たり前。

    b 悪魔のようなクズ男に呆然の毎日
     そして、その男は、毎日当たり前のように銀座のクラブへ遊びに行き、会社の金を月々の支払いで200~300万円コンスタントに遣っていたようです。風貌は動物に例えれば、「タスマニアデビル」といった感じです。

     会社の金で高級マンションに住まい、過去に離婚した女房が2人いて毎月仕送っていた他に、女を囲っていたし、とにかく会社の資金を個人的に流用し放題、やりたい放題、人を憂さ晴らしに利用し放題でした。

    c 入社したはずの社員がいまだに帰ってこないミステリー!?
     その会社では、今までに入社してはやめていく社員が数えきれないほどであり、やめた記録の一番短い時間を尋ねたことがあります。

     それは数年前、入社した社員が、入社当日の朝10:00に初出勤して、12:00になったので昼食に行くと言って出てから、荷物は置いたままいまだに帰って来ないと言っていました。

    (14) 第8番目の就職
    a やっと闇の中の影のような「漆黒企業」を脱出するも、ぼけ老人社長に苦しめられる!
     次の会社は、国内の部品メーカーです。この会社に入れたことは感謝しました。なぜなら、この会社に入れなければ、まるで闇の中の更に影のような不動産会社を辞めることができなかったからです。

     しかし、新たに入社した会社の社長は、何を言っているのかよく解らないところがあり、何となく動作にも違和感があったのですが、闇の中の影不動産会社を辞めたかったので、細かいことを言っていられません。

     この会社の営業部長候補として入社したのですが、よくよく観察してみて、まずこの社長が何を言っているのかわからない点を他の社員にも尋ねると、やはり「皆、話の中の20~30%位は解らない」と口々に言うのです。

    b 何を言っているのか良く解らないボケモン!
     私にしてみると、この社長の話は30~40%くらい分からないのです。何か口の中で、ゴニョゴニョと言っているので、2回くらいは聞き直せるのですが、さすがに3度は聞き返せませんよね。

     仕事の仕方についても、商品知識を与えてくれることには積極的なのですが、販路の開拓や整備、あるいは販売戦略はどのように考えていくのか、新たな商品開発の方向性等のビジョンが全く欠如しているのです。

    c 会社のトップにビジョンがなくては社員は展望できません
     この会社では、結局ボケモンが何を言っているのかわからないことや、自発的に私やっていることに対してまでも文句を言ってくることに辟易したからと言ってやめるつもりはありませんでした。

     しかし、ここでの退職を決意した決定的な要因は、この会社の社長にビジョン・戦略などの持ち合わせが一切無いことだったのです。

     後から聞いた話では、この社長は「アルコール中毒」で何度か入院している人で、その後遺症もあったようです。まるでぼけ老人のようでした。この会社に在籍中、ハローワークで次の会社に応募しました。

    (15) 第9番目の就職
    a 奇跡的な偶然により入社が決まる!
     新たに応募した会社は、募集人員は1名で既に応募が30人近くありました。私はこの時すでに50歳です。この会社へ応募しても入社は難しいものと殆ど諦めていて、面接当日の応募者は50名以上まで増えていたのです。

     面接も、同日合計で10名を予定しているとのことであり、私が最初の面接とのことで、この話を聞いて諦めました。しかし何と、この会社が採用を決定したのは、この私でした。

    b 名刺は色々と行動して各方面へ渡しておくべきですな~!
     この会社に入社できた理由として、私はその面接時に記憶になかったのですが、この会社は過去にビッグサイトへ何度も出展していて、海外メーカーブースにこの会社の社長が自ら出展していたそうです。

     当時、私が勤務していた会社(第5番目に就職していたメーカー)に在席していた時に、私はこの小間でこの社長と名刺交換したようです。

     また、私を採用した理由として、私が以前勤めていた会社とこの会社が同業種であることや、販売ルートが全く一緒だったことから即戦力・即新規開拓要員と判断したそうです。

    c 外資メーカーの日本国内営業総責任者に就任て聞くと恰好いいでしょ!
     この会社では、外資メーカーの日本国内営業総責任者の仕事をしました。外資メーカー の日本国内総責任者というとかっこいいですが、実は、営業がたった一人しかいなかっただけのことです。わっはっは。

     しかし、ここでは、営業戦略立案・販路開拓・商品開発など、資金繰りが無いだけで実質経営者のような仕事をしていましたので、その後の独立起業には大変役立てることができました。

    d 60歳定年制の壁が立ちはだかる!
     この会社では、新規の大手販売店をいくつも開拓しましたが、会社としては60才での定年は動かしようのないものとして考えているようでした。

     もはやこの時点では、「迫り来る定年の重圧」に立ち向かうしかなく、58才の時に自ら起業することを決意することになりました。

    (16) 独立起業
    a 困難を極める商材探しと販路開拓!
     会社の登記など、自分でできることは何でもやり、自宅のマンションの1室を会社事務所として使用し、極力出費を抑えて運営を開始しました。

     当初事業の基盤は、自社サイトでの通販及び楽天市場への出店を目指し、通販で少しでも収益が上がり始めた時点で、過去から取引のあったホームセンター・家電量販店の業界へ進出する計画でした。

    b 自社サイト・通販サイト作成や商材探しなどで苦戦
     しかし、自社サイトと楽天市場への出店では、費やした時間は半年強かかり、費用も思った以上の持ち出しとなり、結果として空振りに終わってしまいました。

     途中、これはダメだと思い始めた時点で、即座に方向転換を図りました。しかし、最初から覚悟はしていましたが、まだその時点で私の会社には「社会的な信用」がありません。

     そこで、私の過去の職務経歴上の顧客だった、商社や問屋及び販売会社へ訪問しても、法人化しているとは言っても一人でやっている私から買う必要性やメリットはないのです。

    c 新規開拓では近隣の新規開拓から始めることが最重要!
     顧客の獲得では、もともと過去の顧客に大きく頼ることは考えていませんでしたし、新規の販売ルートを開拓し始めて、少しづつ成果も上がり始めて来ました。

     その顧客獲得の要因として、私の取り扱う商品群は、各メーカーと販売契約書を取り交わした、特許を備えた商品であり、市場で差別化のできる・希少性・新規性のある商品ばかりだったからです。

    d 販売店での展開は商社を介在させることの必要性を痛感!
     一方で、帳合となってもらえる商社や問屋はなかなか見つからずにいましたが、さんざん探しあぐねて、ここがダメだった場合には、全く別の業種などで改めて展開を模索しなくてはならないと覚悟を決めた時でした。

     意外にも、過去の職歴上のある時期取り引きしていた上場商社が、一社介在を条件に取り扱いをしてくれることになったのです。

    e 上場販売店(数百店舗級)での企画決定は「砂上の楼閣」だった!
     そして、ここで驚くべき事実に突き当たります。商品の導入予定が迫って来た時点で担当商社の営業マンに、目前に迫ってきている納入計画について連絡しました。

     すると、あてにしていた大手上場企業2社での販売企画は、いまさら、まだ確実に決定しているわけではないというのです。

    f 金策にあえぐ!
     この時点での私の会社の状態は、大手販売店の企画が発注書という形で金融機関へ示すことができれば、資金調達は約束されていましたが、商品の導入予定という形では金融機関は納得してくれません。

     そこで、資金不足が深刻になっていましたので、信用保証会社へかけあってみましたが既に借り入れしているので、それ以上は不可能だと言われ、銀行からもこれ以上の融通はできないと断られてしまいました。

     そして、資金が底をつきかけているこの土壇場で、残りの全部の資金を搔き集めて、大手販売会社の確定していない販売予定と心中するか、僅かに資金がある内に撤退するかの決断を迫られることになったのです。

    g 最終手段決断の時迫る!
     尚、事業を立ち上げる3年以上前に、事業に失敗した場合の最後の手段として、私の命と引き換えに保険金で債務の返済を済ませて、自宅マンションのローンの債務は団体信用生命保険で清算する計画でした。

     私の死後、住居マンションのローン残高の債務が消滅した後に、女房がマンションを売りに出せば、事業での債務の返済分を差し引いた残金と、遺族年金を合わせて女房一人ならば細々と暮らせる計画でした。

    h 意外にも簡単には死ねないんですね?
     しかし、こうなった以上、後は自分が完璧に死ねることが必要です。死に方もいろいろありますが、轢死(れきし)は体がバラバラになり、鉄道会社との補償問題に発展することもあると同時に、痛そうだから嫌だし。

     入水自殺の場合は、海の場合は石鯛やフナ虫が体の中に入り込んで食べられてしまうようで、体がブヨブヨになり腹部にガスもたまって膨らんでいるのは、苦しそうで無理だし。

     飛び降り自殺の場合には、下を歩く人や通過する車もあるので、他人を道ずれにするのは申し訳ないことなのでダメだし、何よりも万一自分自身が助かってしまう事があると困るわけです。

    i 自分の死に顔を夢に見て熟睡できるわけないでしょ!
     毎晩布団に横たわってから、自分の様々な死にざまをイメージするわけですから、眠れるはずはありませんよね。しかし、さまざまに検討の結果、自殺の手段を「首吊り」に決定しました。

     その理由として、体中の穴という穴から体液は出るは、口から舌が長く大きく飛び出るは、顔面はうっ血してすごい形相で、便や尿は垂れ流しているとは言うものの、他人に迷惑をかける度合いは少ないのです。

     尚、決行する際、あらかじめロープなどを用意してしまうと、その時点では女房に見つかると詰問される可能性があるので、ロープは決行当日の夕方購入することに決めていました。

    j 死ぬ準備って結構気を使うんですよ!
     ホームセンターでは黒いロープは打っていませんでした。その結果、白くて頑丈なロープに、黒いスプレーをかけることにしました。

     そして、何度も下見に行きましたが、夕暮れ時に死に場所を探していると、道行く人に不審の目を向けられているようにも感じられて、せっかく良い条件の場所を見つけても、とどまりにくいこともしばしばでした。

     このような場面では、不思議と探した場所には人が多く通っているように見えることや、場合によっては決行の際に早く発見されてしまうようにも思えて、命を取り留めてしまう危険性があるように感じたのです。

    k 死出の旅路のシミュレーション
     そして、決行日当日の出発時間は、自宅出発を午前0時と決めていました。ジョギングの格好をして出かけて行く予定でしたが、ロープを人目に付かないように腹などに巻いてその上から服を着る予定でした。

     警邏中のパトカーなどに出逢うことがあったとしたら、身体に巻いたロープによって身体のいびつな出っ張りを不審がられて職務質問に合わないか?

     あるいは、縄跳びに使うと言ってごまかせるだろうか?調べられると目的が果たせなくなる可能性が有り面倒なことになりそう!など、いろいろなことが頭に浮かびます。

    l 決行日が迫っていることを女房に伝える
     決行日の3日前に、まったく黙っているわけにもいきませんでしたので、最終的に女房へできるだけ遠回しに清算に向けた話をし始めたところ、敏感な女房はすぐに気づいて「私も連れて行って」と言うのです。

     そうなってしまっては後の清算ができないので、後のことを頼みたいことを全て伝えましたが、私の考えを知って、目に一杯涙を浮かべ真っ青な顔の女房は、決して私一人で行くことに納得しません。

     私としては、色々な病気を抱えている女房には、古いけれど住み慣れた住まいを残してあげて、通院などの環境を変えることもしないで済むように、何とか自分だけが居なくなることで清算を終えるつもりだったのです。

    m 直前で決行を思いとどまる
     しかし、結果的には自らの命を絶つこともなく、今も女房と2人で別の場所で、何とか暮らしています。

     その年の桜が満開に咲き誇っている光景は目に染みて、桜吹雪がまぶしかったのを忘れませんし、「生きていることを実感」したものです。


     今現在も、勿論不安は大きくて辛いことはたくさんありますが、まだこの年になっても「再度自分の力で人生を切り拓き、必ず成功を掴み取る」という目標に向かって生きています。


    学   歴
    埼玉県内県立高校卒業
    法政大学通信教育学部経済学科中退

    資   格
    ファイナンシャルプランナー(AFP)
    二級 ファイナンシャルプランニング技能士(国家資格)
    介護職員初任者研修
    福祉住環境コーディネーター2級
    福祉用具専門相談員
    終活カウンセラー
    画家(現在無所属)

    画   歴
    ・国画会展 入選18回(新人賞 2007・会友賞 2013)
    ・個展 2回(1997/2001 埼玉県川口市リリア)
    ・青木繁記念大賞展 2回(奨励賞 2002)
    ・国画会展グループ展 通算24回
    ・前田青邨記念大賞展 (2002)


    性 別:男性

血液型:B

出身地:埼玉県

居住地:東京都

ステータス:既婚

職 業:会社員兼業・起業途上(FPコンサルタント)

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